LOGIN聖カトリーナの救急医療棟で大きな声が響いていた。私は湊の個人オフィスへ潜り込む為にそこを通ったのだけれど。奇妙な光景。人だかりが出来ている。周囲を包む異様な雰囲気。びしょ濡れになっている私に誰も気付かない程には、周囲が混乱しているのが分かる。人だかりの真ん中がチラチラ見える。どうやら一人の男性が暴れているのか、大声を出している。「佐伯燈を連れて来い!!」その言葉を聞き、私は足を止める。(佐伯燈……?)そう思って人ごみの中に入って行く。一人の男性が看護師を人質に取るような形で、小さなナイフのようなものを周囲に向けている。「新見先生、止めてください」周囲を取り囲んでいた中の看護師らしき人がそう言う。「新見先生、落ち着いて!」そう声を掛けているスタッフらしき人も居る。(佐伯燈を要求して、何をしようと言うの?)(これは一体、どういう状況なの?)(先生と呼ばれているって事は、聖カトリーナの医師なのよね?)人ごみの中から中心にいる男性を見る。既にその目が常軌を逸していた。(あぁ、こういう人、見た事あるわ)サロン・ド・オーキッドで何回か、こんな事態を見た事がある私にとっては、何も珍しい光景じゃない。けれどその中心に居る人物が佐伯燈を要求しているとなれば、話は別だ。(佐伯燈は一体、何をしたのよ)そう思いながら私はニヤニヤが止まらなかった。◇◇◇聖カトリーナの裏口に到着した時、湊も一緒に到着したようだった。「湊くん!」遼大がそう言って湊に声を掛ける。「高嶺さん、燈」湊はそう言いながら私たちに合流する。「久遠理事!」そう言いながら警備員の格好をした人物が駆け寄って来る。「状況は?」歩きながら湊がそう聞く。「あまり思わしくはないですね」警備員の人がそう言う。「場所は?」遼大がそう聞くと警備員の人が言う。「ERの入っている医療棟です」◇◇◇医療棟に入ると、物々しい空気が漂っていた。人だかりがある。「燈は俺の後ろに」遼大がそう言う。「通してくれ」湊が少し大きな声でそう言うと、人だかりが割れて、中央に道が出来る。そこを通って、中心部まで行くと、目の前の女性看護師を人質に取るような形で新見医師がこちらに刃物を向けていた。「新見悟!」湊がそう声を掛ける。新見医師は私たちを視認すると、少し笑う。「来たな、佐伯
「とにかく聖カトリーナに向かおう」遼大にそう言われて私は急いで着替えを済ませ、濡れた髪をまとめて、ホテルの部屋を遼大と共に飛び出した。車に乗り込もうとした時、湊から連絡が入る。~新見医師がどうやら、人質をとって、燈を連れて来いと要求しているらしい~そのメッセージを読んでもどういう事なのか、全く分からない。新見医師が私を連れて来いと要求している?遼大の顔を見る。「どういう事なの?」そう聞いても遼大にだって分かる訳は無いのだけれど。スマホが鳴る。湊からだ。「もしもし」そう言うと電話の向こうで湊が言う。『あ、燈か? 高嶺さんも一緒だな?』そう聞かれて私は頷く。「えぇ、一緒に居るわ」湊が聞く。『一体、これはどういう事なんだ?』そう聞かれて遼大が言う。「山村奈津美に会って来た。山村奈津美は新見悟と愛人関係だったそうだ。七年前のカルテの改ざんの事も、新見悟に頼まれて実行したそうだ」遼大がそう言うと、湊が電話の向こうで押し黙る。きっと物事を頭の中で整理しているんだろうと思った。『愛沢くるみとは関わりは無いんだな?』そう聞かれて遼大が言う。「あぁ、俺たちが確認した時点では愛沢くるみとは無関係だ。 新見悟は燈の事を常々、疎ましく感じていて、あの颯太の事故の時に、燈を排除する為に便乗したんだろう」電話の向こうで大きな溜息が聞こえる。『俺は地域医療連携会議の為に聖カトリーナをさっき出たところなんだが、聖カトリーナを出た時に愛沢くるみに出くわしたんだ』そう言われて私は聞き返す。「愛沢くるみに?」遼大を見ると遼大も苦笑している。『おそらくは金の無心だったんだろう。俺は会議がある事を理由に話を聞かなかったが……』湊はそこまで言った時、私の頭の中にふと、一つの可能性が浮かび上がる。「もしかしたら愛沢くるみも聖カトリーナに居るかもしれないわね」私がそう言うと遼大が頷き、電話の向こうで湊も言う。『その可能性は大いにあるだろうな』豪雨が車の天井を叩き、大きな声で話さなければいけない程、その雨音が大きい。「とりあえず、湊くんも聖カトリーナに向かっているんだろう?」遼大がそう聞く。『えぇ、向かっています』湊のその答えを聞き、私と遼大は顔を見合わせて頷く。「こちらも聖カトリーナに向かっている。向こうで落ち合おう」電話を切った私に遼
「戻れそうか?」遼大にそう聞かれて私は微笑む。「えぇ、でもその前にシャワーだけ浴びたいわ」そう言うと遼大が微笑む。「それもそうだな」そう言って私を立ち上がらせて、言う。「一緒に浴びようか」そう言われて私は遼大を見る。「一緒に?」そう聞くと遼大が微笑む。「あぁ、一緒に。時間短縮さ」◇◇◇聖カトリーナを出て、車窓から流れる景色を眺める。愛沢くるみはびしょ濡れだった。だがそれは確実に俺の同情を買う為だろう。何の計算も無しに愛沢くるみがあんな真似をする筈が無い。そう思えるくらいには俺は愛沢くるみに何の感情も持っていなかった。愛沢くるみがあんな真似をしたのは、俺から金を引き出す為だ。まだ自分が俺にとって価値があると思っている。そう思うと笑えた。俺はふと思いつき、スマホを手に取る。高嶺さんと燈にメッセージを入れておかないと。愛沢くるみを決して逃がさないよう、手を打たなければ。◇◇◇豪雨に打たれながら私は歩く。これじゃあ濡れた分、損だわ。せっかく、この天候を利用して、湊に近付こうと思ったのに。仕事なら仕方ないわ。以前なら湊のスケジュールも何となく把握は出来ていたのに、最近では全く湊のスケジュールの把握なんて出来ていなかった。それに以前は私が会いに行けば、他に何か予定が入っていても私を優先してくれていたのに!千堂彰が捕まり、私の弟も新田豊に人質に取られている。加山良江は久遠家で謹慎処分中。お母様も療養先から戻って来ない。乙藤小春は使えないし、私から情報だけを抜き取って行ったあの真壁早妃とかいう女とも連絡が取れない。顔のシミがとれなければ、サロン・ド・オーキッドに行く事も出来ない。イライラしながら私は聖カトリーナの裏口から正面玄関へ向かって歩く。このまま帰る訳にはいかない。湊のオフィスの場所は知っている。こんなに濡れた状態で院内を歩くのは危険だけれど、背に腹は代えられない。そう思って私は聖カトリーナに入った。湊の個人オフィスに向かう最中、奇妙な光景を目にした。あれは……?◇◇◇けたたましい音でスマホが鳴っている。シャワーから出た瞬間に聞こえて来たその音に気付いた瞬間、私は駆け出していた。「どうした?」遼大が私の後を追って駆けて来て聞く。「緊急アラームよ」普段の私のスマホの着信音は、こんなけたたましい音では無い。「緊急アラ
高嶺遼大と佐伯燈が山村奈津美の元へ行った……。それが意味する事……それはおそらくは七年前のカルテの改ざんに二人が気付いたという事だ。全身の血の気が引いていく。僕はとりあえず、一人になって考えたくて、院内を歩き、階段を上り、屋上に上がる。ゲリラ豪雨が降っている事にその時になって初めて気づく。屋上へ上がる手前の階段の踊り場で、僕は一人、考え込む。佐伯燈と高嶺遼大が山村奈津美の元へ行った。何を話したのか、何が話されたのか。まだ僕の事を話したとは限らないし、山村奈津美だって僕との事を話してしまえば、自分がやった事の責任を負わなければいけないのだから、そんなに簡単には話さないだろう。ここ数日、山村奈津美の事を調べている動きがあって、警戒はしていたが。まさかこんなに早くに当事者である佐伯燈が直接向かうなんて思いもしなかったのだ。どうする? どうしたら良い?仮に山村奈津美が僕の事を話したとして。カルテの改ざんを指示したのが僕だとバレたとして。僕が負わなければならない責任は一体、どれほどだろうか。いや、事はそんなに単純では無い。僕がカルテの改ざんを指示する以前から山村奈津美とそういう関係だったという事自体が露呈したらまずいのだ。妻に何て言う?今までバレずに上手くやって来たのに。これが露呈したら僕が想定していた以上に影響が出そうだった。何かしなければ……何か……。◇◇◇「とりあえず、証言は取れたとして」遼大がそう言いながら私を見る。「後はそれを整理して、きちんとした形に残しておくようにしないとな」そう言われて私は不意に不安になる。「ねぇ、もしこの事が新見医師に知られたら、彼は何かして来るかしら」そう聞くと遼大が少し笑う。「山村奈津美の元には俺の部下を残してある。知られたとして新見医師が何かを言って来ても、何かをしようとしても、俺の部下がそれを止めるだろうし、山村奈津美の安全は確保してあるから、大丈夫だよ」そう言われて私は笑う。(本当にこの人は抜かりが無いのね)それと共に遼大の言う、部下とはどういった人たちなんだろうかとふと疑問が湧く。「ねぇ、遼大は今まで色々と人を動かして来ているけれど、遼大の言う部下ってどういう人たちなの?」そう聞くと遼大が私を引き寄せて聞く。「知りたいのか?」そう聞かれて私は笑う。「えぇ、知りたいわ
遼大の腕の中で少しずつ平常心を取り戻した私の思考は、新見悟の事へとシフトして行った。新見悟がずっと私の事を疎ましく思っていた事、自分こそがERの部長に相応しいのだと思っていた事、そんな状況では私を排除するという選択肢一択だっただろう。「新見医師の私を排除するっていう選択肢と愛沢くるみの選択肢が重なったのね」私が不意にそう言うと、遼大が私の頭を撫でながら言う。「二人の利害が一致したんだろうな」遼大はそう言いながら大きく息をつくと、更に言う。「だが、燈を排除した事の弊害もあった、医師不足っていう弊害の中で新見医師はそれを解決出来ていない」確かに私は聖カトリーナで脳外科医として仕事をしている筈の湊がERに呼び出され、専門外の仕事を余儀なくされているところを実際に見た。「それでも医師不足というのは、新見医師一人でどうにかなるものでは無いのよね」私がそう言うと遼大が少し笑う。「燈の言う通りだが、颯太のあの一件で、聖カトリーナは医療過誤の責任を燈一人に負わせた事で、他の医師が明日は我が身と思ったのも、事実と言えば事実だよ。実際に、燈が辞めた後、何人かの医師が聖カトリーナを辞めて他に移っているからね」遼大はそう言うと少し笑って言う。「EMSOの方からテコ入れしても良いが、それをするなら聖カトリーナの上層部と話をしないといけないらからな」今の現状で遼大が出て行けば、聖カトリーナは完全にEMSOの傘下に入る事になる。それを上層部が良しとするかどうかは、また別問題だ。不意に遼大のスマホの通知音が鳴る。遼大がスマホを取り出して確認すると、私に言う。「山村奈津美から証言が取れたよ。本人の意思も確認した。俺たちに協力するそうだ」山村奈津美の事情を考慮に入れると、彼女自身がそう判断したのは、良かったのかどうなのか。新見医師を告発するとなると、二人の関係は破綻するだろう。「山村奈津美が仕事に復帰出来るように、何か出来る事があればと思うんだけど」私がそう言うと遼大がふっと笑う。「本当に燈は優しいな」そう言いながら遼大はスマホを操作し、そして言う。「本人同士の問題が絡んでいるのは、仕方ない事だよ。それは外部の俺たちが口を出す問題じゃない。ただ正しい道へ進むと判断したなら、間違いを犯した事への贖罪はすべきだ。それが当の本人にとって辛い決断だったとしてもね」
そう言われて私は言い返す。「蹴落とすですって?」そう言うと賀神玲は自分のタブレットを操作し、また私に画面を見せる。そこに表示されていたのは私が本宮啓二に送ったあのファイルがあった。それを見て愕然とする。「どうしてこれをあなたが……」私が震える声でそう聞くと、賀神玲はふっと笑って言う。「君は何か勘違いをしているようだが、君の持っているそのタブレットは誰が支給したと思っている?」そう言われて私はハッとなる。そこで初めて私は自分が持っているそのタブレットがEMSOから支給されたものだと思い出す。「全て監視下にあった、という事ね」私がそう言うと賀神玲が言う。「EMSOは機密情報を取り扱う機関だ。故に外への情報流出も漏洩もあってはならない。厳格にその規定を守る為に支給した端末を管理するのは至極、当然の事だろう?」そう言われて私は自分が今までいかに浅はかだったかを思い知る。どこから私は道を間違えたのだろう。「高嶺に評価されたいという君の気持は良く分かるよ。高嶺はEMSOの最高責任者だからな」そう言って賀神玲はクスッと笑い、タブレットを操作しながら聞く。「君がどうして日本へ呼ばれたか、考えた事はあるか?」そう聞かれて私は言う。「EMSO日本支局再編の為、でしょう?」そう言うと賀神玲は私を見て鼻で笑い、言う。「君がどうして選出されたのか、君のお父様にお聞きになると良い」その言葉に私の全身の血の気が一気に引く。「お父様……?」私が引き攣った声でそう聞き返すと、賀神玲は憐れむような目つきで静かにタブレットをまた私に見せる。そこには私のお父様の署名のある書類が表示されている。「君のお父様とEMSOの最大出資者である乙藤氏は、旧知の仲だそうだ」それらが示すもの……それは今回の人選で私が選ばれたのはお父様が手を回したからであって、決して私の実力では無かった、という事……。「君が選出された事に疑問を持っていた。君は優秀だが、日本支局の再編となると、大きなプロジェクトだったからね」そう言われて賀神玲を見上げる。確かに、よくよく考えれば、今、再編の為に動いている人物たちは、EMSOの中でも天才と呼ばれている人たちばかりだ。そんな中に自分が入る事が出来て、私は舞い上がっていた。やっと自分の実力が認められたと思ったのだ。けれどそれはお父様が最







